【2011年7月18日 佐倉城訪問レポート】
佐倉城跡公園案内板
佐倉城跡公園案内板
 1610年、徳川家康が家来の土井勝利が普請したお城ということだが、かつて政庁だったという重厚感はない。 気軽にくつろぐ公園という雰囲気がしっかり定着している印象である。 批判ではない。 時に応じて使い方を変える事は大切なことだ。
 真っ先に、100名城スタンプを押しに佐倉城址公園管理センターへ行きたかったが、駐車場の隅にある案内板にそれらしい施設が書かれていない。 歩いているうちに見つかるだろうと気軽に考えて本丸方向へ歩き出した。
 今年の梅雨明けが早く、7月半ばだというのにすっかり真夏である。 9日の梅雨明け以来、連日30℃を越えている。 しかし、地中にいるセミの幼虫には地上の温度は無関係らしく、普段の行動範囲(柏市&都内)ではいまだ鳴き声を聞いていない。 ここに来て、今年初めてセミらしき鳴き声を聞いた。
 本丸への道は、空濠の間を迂回するようになっており、二の門跡までゆっくり歩いて10分ほどかかった。 空濠と言っているが、気が生い茂った谷でしかない。 敵の侵入を防ぐのが濠の役割だと思うが、これでは敵が隠れるのに好都合だろう。 江戸時代からこうだったのだろうか。 二の門跡も明治初期に撮影したという二の門の写真を載せた説明板がなければ、ただの林という所だ。
二の門跡   一の門跡
二の門跡   一の門跡
 二の門跡から100メートル程先に一の門跡がある。 ここにも、明治初期に撮影したという一の門の写真が掲示してある。 一の門の土台らしきものが残っていて、二の門跡よりは歴史的な臨場感が漂っている。
本丸跡
本丸跡
二の丸跡
二の丸跡
 一の門の先が本丸跡である。 ここには何も無い。 しかも、今日に限ったことなのか、誰もいない・・・・。
 本丸の土手から水濠を見下ろせるかと思って登ってみたが、空濠同様、雑木に遮られて下の景色が全く見えない。 水濠さえ超えれば敵も登り放題という感じ。 徳川幕府のお膝元なので、築城当初から敵が侵入してくる事態は想定していなかったのだろうか。
 本丸を半周して、一旦、一の門跡に戻った。 そこから左側へ進むと二の丸跡に出る。 ここにも何も無い。 本丸跡、二の丸跡ともに戦前は陸軍の施設があったようだが、二の丸跡に病院跡地という看板がある以外、軍隊を想起させるものはない。 二の丸跡は今では、歴史民族博物館の臨時駐車場になっているようだ。 今日は一台の車もない。 歴史民族博物館で臨時駐車場が必要なほど賑わう頻度って、どのくらいあるのだろう。
 二の丸跡を先に進むと、歴史民族博物館の戻ってきた。 スタンプがあるという公園管理センターは見当たらなかった。 途方にくれて駐車場へ戻って来たら、博物館の職員さんらしき人がいたので、その人にスタンプの在り処を尋ねた。 「スタンプがあるのは、市の施設で・・・・」と実に国家公務員らしい話始めで、駐車場の隅にある公園案内板の地図で丁寧に道順を説明してくれた。 やはり、管理センターは案内板に載っていなかった。 くらしの植物苑の向かいで県立高校の手前にあると言う。 だが、二の門跡方面に進み途中から本丸と反対側へ曲がる道順を教えてくれたが、地図を見る限りでは姥ヶ池の横を通るルートが最短で、教えてくれたルートかなり遠回りである。 親切に教えてくれことに恐縮しつつ、思い切って姥ヶ池ルートは通れないのか尋ねたところ、このルートは下りと上りがきついので健脚の人でなければ薦めないとの回答。 たいへん人当たりの良い人だったが、自分よりはるかに年上のおじさんにそんなことを言われようとは・・・・。 暑い中とは言え、たかだが30分少しか歩いていないのに、そんなにバテているように見えたのだろうか。 ショック!!。
姥ヶ池
姥ヶ池
佐倉城址公園センター
佐倉城址公園センター
 もちろん、姥ヶ池ルートを通ってスタンプを押しに行った。 姥ヶ池へ下りる道はさほど急でもなく長さも100m足らずだと思う。 上りも同様、さして急ではなく100mくらいのものだった。
 Wikipediaによる事前の予習では、スタンプ設置場所は「佐倉城址公園管理センター」となっていたが、現地の看板は「佐倉城址公園センター」となっていた。 15時3分に無事、スタンプをゲット。 最大の目的を果したところで、急に喉の渇きを覚え、くらしの植物苑の駐車場入口にある自動販売機でCCレモンを買って一息入れた。 ほぼ一気飲みで20秒とかからず飲み干して、歴史民族博物館へ向かった。
 姥ヶ池ルートを引き返し、博物館で入場チケットを買ったときは、まだ15時15分だった。 休日の閉館時刻は17時とのことで、見学する時間はたっぷりとある・・・と思ったのだが、やはり、じっくりと見るには時間が足りなかった。 管内は第一展示室から第六展示室に分かれており、第四展示室がリニューアル中で閉鎖されていた。 5つの展示室を足早に見て廻ったが、廻り終わったときは16時45分になっていた。
 第一展示室は、旧石器時代から10世紀頃までの律令国家時代までの原始・古代の頃に関する展示。 話が昔過ぎてぴんとこない。 この夏に訪ねるつもりの「多賀城の碑」のレプリカがあったのは嬉しかった。 多賀城の地形模型もあるのだから、先の震災と比較される貞観地震の被害に関する展示を付け加えるくらいの柔軟さが欲しい。
 第二展示室は、平安から戦国時代までの中世の頃に関する展示。 戦国時代といえば誰と誰がなぜ戦ったか、どう戦ったのかというドラマたっぷりの時代である。 戦国時代を舞台にした小説に毒された者には、此処の展示は無機質で冷たい感じがする。 此処は勉強の場で娯楽の場でないことは承知しているが、できることならワクワクした気分で勉強したい。
国立歴史民族博物館
国立歴史民族博物館
 第三展示室は、ほぼ江戸時代と重なる近世の頃に関する展示。 江戸時代の文化や社会のしくみに関する展示がたくさん並んでいるが、やっぱり無機質。 文化を享受していたであろうその時代の人々のエネルギーのようなものが感じられない。
 第五展示室は、明治から昭和初期頃までの近代に関する展示。 明治の頃は現代の生活様式の先駈けの時代であり、それ以前の展示室の展示から一転して身近に感じられる。 産業振興、外国貿易、震災、文化住宅、等々今でも課題となっている事に取り組んだ人たちはイメージし易い。
 第六展示室は、戦争とそれ以降の現代に関する展示。 さすがに、此処まで来ると見なくても分かるという慢心と14時過ぎから歩き続けた疲労が相まって早々に切り上げようという気持でいっぱい。
 なにやら、終始批判的なレポートになってしまったが、地元千葉県で唯一100名城指定された場所だからこそ期待も大きく、厳しく見てしまうことを理解してほしい。